幼美つれづれ草 −第21回− 汚れてなんかいない 汚してなんかいない


「服を汚さないように、造形専用のTシャツを着て活動します。」 ついこの前まで、何も感じずに、幼稚園の造形ルームで保護者に説明をしていたような気がします。

「机が汚れないようにシートを敷くと、こともたちはのびのびと活動することができます。」 保育者養成校に通う学生たちに、こんな風に指導のポイントを伝授してきました。

ところがある時、気付いてしまったのです。

「はて・・・こどもたちは服や机を汚しているのだろうか」 「いやいや、色が付くだけ、泥が付くだけで汚れてなんかいないし汚してなんかいない!」

私は、何十年も間違った言葉を使ってきてしまったことに愕然としました。

絵の具やクレヨン、粘土などの材料にであったこどもたちは、自分と対象との対話を重ねる過程で、様々な環境の変化を生み出します。その変化は、偶発性や即興性に溢れ、表現主体であるこどもの意図の形象化と拡散のプロセスの記録であり、行為と思いの結晶ともいうべき痕跡です。そうして生まれた環境の変化に対して「汚れ」という言葉を当てはめ、共通言語としてしまったのは、間違いなく大人です。その結果、これまでどれほど多くの「美」が見逃されてきたことでしょう。

そのことに気付いてしまって以来、できる限り「色が付く」「〇〇になる」と言うように心掛けてきました。ところがそれは案外難しいということに気付きました。言葉は真実の一部だけを切り取り、年月を掛けて切り取ったイメージを定着させる性質がある、ということを実感しました。もしそうであるならば、同じ年月をかけて、誤った言葉の使い方を変えていかなくてはなりません。

こうした事例は他にもあります。例えば、植物が虫に食われることや枯れていくことを価値の低下と見なす見方や考え方も、大人が陥る残念な思い込みの1つです。思い込みだけならまだよいのですが、そうした固定概念をこどもたちに伝える大人が、保育者の中にも少なからず見受けられます。虫食いや枯れる現象に、多くの不思議や美、興味・関心の種子が潜んでいることに光を当てる保育者をこどもたちは必要としています。

コロナ禍以降、衛生や安全への過度な配慮が賞賛される傾向が強まりました。「汚れ」を敵視する社会の風潮の中で、この言葉の誤った使い方は、表現したい存在であるこどもたちにとって、明らかに不利な状況をもたらしています。感覚過敏と見なされるこどもの中にも、その影響が認められる事例があります。

そこで、これを機に、こどもの表現場面で、「汚れ」という言葉を使うのを慎むようにしてみませんか?思わず使ってから、ふと立ち止まるだけでもいいのです。「そんなことにはすでに気付いていた」というみなさんも、さらに声を大きくしながら、共に一歩を踏み出しましょう。

 

プロフィール

槇  英子(まき ひでこ)

淑徳大学総合福祉学部 教授。  千葉幼年美術の会 代表。  『美育文化ポケット』編集委員。

美術教員になる学びを経た後、絵本作家を目指していたが、幼稚園の造形教室と子育てを体験し、幼児期のこどもたちに魅せられて母校の大学院の幼児心理学研究室で学び直す。その後も幼稚園等で様々な実践研究を重ね、今に至る。学生時代から継続している公民館の親子造形サークルは40年超え。2024年「千葉幼年美術の会」を仲間と立ち上げる。

主著は『保育をひらく造形表現』(萌文書林)。共著は『ふしぎだね。きれいだな。たのしいね。』(学校図書)、『倉橋惣三「児童心理」講義録を読み解く』(萌文書林)、『絵本でつくるワークショップ』(萌文書林)など多数。